ブラゴヴェシチェンスク (Blagoveshchensk)
* 北緯 50,27°
* 東経 127,53°
シベリア鉄道の線路から110 km. 中国との国境線を形成するアムール川の左岸にあり、ゼヤ川との合流点に位置する. ブラゴヴェシチェンスクと対岸の中国の町、黒河市は自由経済地域とされ、黒河口岸を通じて国境交易が盛んに行なわれている.
町の名は、1858年にアムール川とゼーヤ川の合流点にブラゴヴェシチェーニエ聖堂(生神女福音聖堂)が建てられたことに由来する. なお、ロシア正教の「生神女福音」とは、カトリックにおける「受胎告知」に相当する.
黒竜江沿岸は早くからダウール族とツングース系のドゥチェル族が居住していた地域である. 現在のブラゴヴェシチェンスク市街南東25-30km、黒竜江東岸にある中国人居留地江東六十四屯や璦琿古城(現在のグロデコフスキー遺跡)の地域には、遅くとも西暦1000年には両民族が住んでいたとされる.
ロシアの商人・探検家エロフェイ・ハバロフによって、この地域に1652年にはアイチュン、1683年から1685年にかけてはアイグンと呼ばれていたドゥチェル族の町があったと記録されている.
1689年に康熙帝時代の清朝とピョートル1世時代(摂政ソフィア・アレクセーエヴナ)のロシア・ツァーリ国との間で結ばれた、ネルチンスク条約では、ブラゴヴェシチェンスク周辺地域は清朝の領土とされた(清露国境紛争).
その後、1856年にブラゴヴェシチェンスク市街地はロマノフ朝ロシア帝国の要塞都市として建設された. アムール川の北部は清に属していたが、1858年のアイグン条約(璦琿条約)と1860年の北京条約によって外満洲の一部として正式にロシアに割譲され、アムール・コサック軍の根拠地となった. この時、例外的に広さ約3,600平方キロの中国人居留地江東六十四屯はロシア領ながら清朝による管理が認められた.
20世紀初めに金が発見されたことで急速に成長した.